「キャッチャー・イン・ザ・ライ」読みました。
最初は、ずーっと斜に構えて、あれ嫌、これ嫌言ってる主人公のホールデンのことが好きになれず。もっと素直になれよ!とか、好きなことをつぶやくほうが清々しいぞ!と思いながら読んでおりました。
終盤まで好きになれずに居たけど、
最後、アントリーニさんの教えのところに来て、なんていい本なんだと思いました。
アントリーニさんは言います。
「私が見るに、君はある種の、きわめておぞましい落下傾向にはまり込んじゃっているみたいだ。・・・」
「未成熟なるもののしるしとは、大義のために高貴なる死を求めることだ。その一方で、成熟したもののしるしとは、大義のために卑しく生きることを求めることだ。」
続けて
「君は発見するだろう。人間のなす様々な行為を目にして混乱し、怯え、あるいは、吐き気さえもおよおしたのは、君一人ではないということを、とても多くの人が、君と同じように、道義的に、また精神的に思い悩んできた。ありがたいことに、彼らの内のあるものは、そういう悩みについての記録をしっかりと残しているんだ。君はそういう人から学ぶことができる。
同じようにもし君に提供すべき何かができたなら、誰かがいつの日か、君からその何かを学ぶことになるだろう。
それは美しくも互恵的な仕組みなのだよ。それは教育みたいなことにとどまらない。それは歴史であり、詩なんだ。」
さらに
「私は何も、高等教育を受けた学究の徒だけが価値在るものを社会に与えることができると言っているわけではない。しかし、傾向的に言って、もしうとう教育を受けた学究の徒が、もともと頭脳明晰にして創造性に富んだ人なら、はるかに価値ある記録を残す。・・・」
アントリーニさんは、ホールデンに語りかける時に、「君」って言葉を使います。
私は、この小説の始まりからずっと、ホールデンが「君」に語りかけるような形で、思い出話をしているのが気になっていましたが、アントリーニさんの話を聞いてるうちに、ホールデン自身が、落下しかかってる人のなにがしかの助けになるのではないかと思って、この本を書いたのではないかと思い始めました。
先に書きましたが、アントリーニさんは、ホールデンのような悩みを持つ人はたくさんいると、そういう人たちの何人かは、その記録を残している。そこから学べる。そして、ホールデンも提供する何かができたら提供すべきだよ、と
ホールデンはライ麦畑の話をする時に、クレイジーな崖っぷちに立って、崖から落ちそう(落下しそうに)なる子どもたちをかたっぱしから捕まえるんだよ。
つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。僕はただそういうものになりたいんだ。
と言います。
今まさに、ホールデンは、この文章を書くことで、落下しそうになる子どもを救おうとしている。
自分の経験を語りつつ、その経験に共感させ、自分が更生するきっかけになったアントリーニさんの話をもってきて、落下しそうになる子どもを救おうとしている。
この文章を読んで、そのことに気づいた人は、大義のために卑しく生きることを望むかもしれませんし、学究の徒になるかもしれません。
サリンジャーは、この本に解説をつけることを断りました。
恐らく、解説などで教えられるのではなく、自分で気づくことが必要なのです。
ホールデンのようなひねくれた子は、誰かに指摘されても簡単に従って更生するなんてないのです。
自分で気づいて、はじめて、生き方を変えることができる。
だから、サリンジャーは解説を断った。
さらに、アントリーニさんを、最後、ゲイみたいに仕立てて、分かりにくくもしている。
それでいて、自分が嫌だと感じる事例を豊富に盛り込み、生きづらい人々の共感を得て、引き込もうとしている。
というような、解釈の上に立ってみると、サリンジャー。。。なんてにくい演出かと!思わされたわけです。
この本は、恐らく、ホールデンが「君」に向けて書いているのではなく、サリンジャー自身が、自分の体験を元に、「君」に向けて書いているのだろうなと思います。
まあ、この解釈が合ってるのかどうかは、わかりませんが、こういう読み方をしてサリンジャー、なんていいやつなんだと、思うのも一興ですよね。
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