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2012年10月24日

器が小さい人にならないための50の行動を読んで

器が小さい人にならないための50の行動

著者:西多昌規




副題は、脳科学が教えるベストな感情コントロール法です。
先日上司との面談で、器が大きい人間になりなさいとアドバイスを受け、単純な僕は、器という名前がついた本を探しに行って読んだ

Facebookで、速読の先生から、「 器を大きくするのに「器」について分かりやすく書かれた本を読んでもだめでしょ。」というご指摘を受けた
確かに・・・、と思いつつも、ほぼ読み終えてしまってたので、頂いたアドバイスは、次回どういう本を読むかの指針にしようと思ってます。

さて、この本は、確かにというか、僕が描いているような「器」的なイメージではなく、どちらかというと、うつ病になるかならないかの瀬戸際に関する「器」というイメージでした。人間の精神状態のことなので基本的には同じことかもしれませんが、取り扱ってる例が、イメージしてたのとは異なってました。

たぶん僕に必要なのは、にじみ出てくる寛容さとかそう言ったものだと薄らと考えている。そしてそれが簡単には手に入れられなさそうということも分かる。
だって、かなり未熟だから・・・、言いたいことは言いたいだけいうし、相手の立場を推し量らないし・・・。ダメなところがいっぱいだ。そして、そう分かっている部分でもなかなか修正できない・・・。コントロールできてないよね。

ただ、約一年前くらいにメンタルヘルス関連について、取り組んでたので内容的には、昔勉強した内容もあり、面白く読めた。

読み方が間違っているかもしれないが、ザックリ言うと、器の大きさは、脳の処理能力の大きさである。そして、脳の処理能力を高めることと、脳の処理容量を大きくしよう。加えて自分の脳を客観的に見ることで、「器」は大きくなるんだ、という感じです。

器の大きさと脳の処理能力の関係は、例えば、仕事でいっぱいいっぱいの時は、人からのちょっとした批判に向きになって反論したりすることです。つまり余裕がない時は、怒りの感情が表に出やすいということです。
例えば、大小様々な仕事がたくさんあるときでも、脳の処理能力を高める、あるいは可視化するためにも、仕事を書き出し優先順位をつけて一つ一つこなしていくようにすると、仕事も進むし、「器」も大きくなるということだ。

なんだか、科学的な知識に基づいて言われると、(「器」の場合は、もっと深遠な雰囲気があるので)逆にそんな簡単でいいのかと反発してしまいそうだが、確かに心のゆとりは重要な気がします。

やっぱり仕事に関してもポイントを抑えてテキパキこなす、余裕があれば他の人の手伝いもするといったようなことができるようになるのも答えの一つなのかもしれません。

後、P29の「どういう状況で自分が爆発して、怒りに負けてしまったかを記憶することは、意味のあることです。」というのもいい方法だと思いました。
同じくP29に「年を取ると人間が丸くなるといいますがエピソード記憶の積み重ねから脳が学習して、結果的に円熟した人格が形成されるということだと思います。」とあるように、どういう時に自分が怒るのかを把握して、その怒ったことが結果的に良くない方向にいったということを記憶していれば、打算的な僕は、予測からの自己抑制が働き、見かけ上大きい器を持っているように見えるでしょう。いかん、ちょっと悪魔の声が聞こえてきた。

その他にも面白いところはあったのですが、長くなってきたのでこのへんで、どんな内容かを伺わせるキーワードだけ羅列します。

ドーパミン、ノルアドレナリン、タイムプレッシャー、ニコチン、アルツハイマー、アセチルコリン、セロトニン、メラトニン、SSRI、SNRI、トリプトファン、睡眠、ワーキングメモリ、メランコリー親和性、自己愛性パーソナリティ障害、リフレーミング、観衆効果、瞑想。

この本のイメージがわくのではないかと・・・、カタカナばっかりですが、分かりやすい本です。

ちょっぴり難しい内容からの最終的なアドバイスは、毎日ゆっくり睡眠取りましょう!!とかですので。

ではでは


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posted by air_water at 13:45 | 京都 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | メンタルヘルス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月18日

デフレ脱却って?

最近、テレビでは皆口をそろえて、デフレ脱却って言ってる。消費増税に対しても、まずはデフレ脱却が必要だ。3%程度の経済成長率が必要だ。などなど良く聞く。

確かに、経済成長してないのに、消費税だけ増えると、税収は減りそうな気もする。

最近、経済評論家(?)の三橋さんがしゃべってる動画があったのでみたら、今のデフレ脱却に向けた政策は間違ってると、たとえば、生産性を上げたらデフレになるんだよ。間違った方法でみんながんばってると、そこでの解決策は、公共投資だったような気がする。ボヤッとしてるが、経済の知識に乏しい私にはそう深くは読みとれない。

でも、「生産性を上げれば上げる程、デフレになる」ってのは、なるほどと腑に落ちた。最近のメーカーでやってることは、価格競争力をつけるために生産性を上げることだ。そりゃデフレになるよ。と思う。

それではいけない。というのが主張なのかもしれないが、じゃあどうやったらいいの?と思うと同時に、生産性をあげることってそんなに悪いことなのかな?と考えるようになった。

生産性をあげると人の手がかかるのを少なくするから、皆楽して同等の価値のものが手に入れられるんじゃないかな。生産性向上いいことじゃんと思うわけだ。

でも、そうやって生産性を高めて来た現在をみると、世の中を悲観的にみる人もいるし、現実に失業している人もいる。

それは、生産性を上げることで、仕事が減って、失業してしまう人が増えたからだよといった単純なものでもない気がする。

そもそも、何で失業する人がいるのかというと、仕事の量が減ったからだ、なんで仕事が減ったかというと生産性を上げたから、なんで生産性を上げたかというと、価格競争力に打ち勝つため、なんで価格競争力に勝つのかというと、中国メーカなどの安い商品がでてきたから、なんで中国の商品が安いかというと、中国の労働者の賃金が安いから、なんで中国の労働者の賃金が安いのかというと、それはそれまで働いてなかったから、働いてないといったら語弊があるが、いわゆる今言われているような経済の枠の中に入ってなかったから、経済の枠の中に入ってないというのは、たとえば、中国の農村で自給自足やアフリカの狩猟で自給自足をやっていたという感じかな?

このなぜなぜ展開が正しいか正しくないかは、ちょっと置いといて、この根本原因も大きな要因のひとつのような気がする。
すなわち、生産性向上によって世界における仕事量が減っただけではなく、世界中で今言われている経済の中に入っていなかった人が、入ってきて、その人とたちが働きだしたので、仕事量が減ったように見えるということだ。

需要と供給のバランスがこの二つの、ことによって狂ってるんだと思う。

こないだ、内田樹さんの講演を聴いてる中で、見えない市場の話をされていた。分かりやすい例示は、お米、主食の米市場にでているのは米生産量の60%くらいらしい、残りの40%は闇市場というわけではなく、市場に出てない米で、たとえば農家がそのまま家庭で消費した、あるいは、ネットで個人販売した、友達にあげたなどである。40%っていうとかなり多い気がするが、確かに農家周辺の人は、米買ってないな・・・。羨ましい。いやいや、妬んでいますと言いたいわけではなkて・・・

その話聞いて、最近考えてた「生産性向上で仕事のパイが減少?」とリンクして、こんな記事書いてるんだけど、

だから恐らく、日本人は、ほとんどの人が目に見える経済の中で生きていたんで、これから先、目に見えない経済の方にシフトしないといけないんだろうという話。

仕事の量は一定ではないので増やす方向に持っていけばいいのだろうが、生産性向上という波が、だいぶ押し下げている気がする。それで、例えば仕事量が一定のままだと仮定すると、今まで目に見える経済圏にいなかった人が大挙して目に見える経済圏に入ってきている昨今では、どうやっても追い出されてしまう
だって、今まで目に見えない経済圏で生きて来た人は、すごく安くで仕事してくれるから・・・。

しかし、そう悲観することもないんじゃないかなとも思う。だって生産性が向上して、デフレなんだから、ものの値段はどんどん安くなってくれる。どっかでバランスしている感覚がある。

それでも、給料が500万円から300万円に減ったとかいう事実があるかもしれないが、それはお金の価値を絶対的なものと認識しているからだと思う。

貨幣なんて、それ自体には価値はない。お金があるから食欲が満たされたなんてことにはならない。お金はものとものとの交換をスムーズにする道具にすぎない。その価値は絶対的なものではなく変わるものだと思う。

例えば、昔PC98シリーズなんて、30万円くらいしたが、ハードディスクなんて1GBあったらすごいほうだったよ。今じゃ、数万円のパソコンでも100GB近い記憶容量があったりする。

だから今の300万円は、ものの価値基準で換算すると3000万円くらいもらってるんだろう。ちょっと計算違ってるか?

ただし、価値観って、たぶん比較でしか実感できないから、給料が500万円だった過去の自分と比較して、なんか貧乏になった気がするし、ほかの給料500万円の人と比較して、貧乏になった気がするということだと思う。額面上減ったという事実があるから。

だから、大事なのは、足を知ることだ!

という単純な答えでは終わらせたくないので、この話は、ここでいったん保留にしとこう。
問題は、正規社員、非正規社員などの守られ方の程度の違いがもたらす格差にあるのかな?


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posted by air_water at 05:58 | 京都 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記etc | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月17日

レヴィナスと愛の現象学を読んで〜補足〜

レヴィナスと愛の現象学

著者:内田樹




またかと言う感じですが、性懲りもなくレヴィナスと愛の現象学で記事書いてます。

「主体」のところは心に刻んでおきたいと思ったのに、すっかり、第1章で書くの忘れてた。修正するのもなんだし、その他、レヴィナスと愛の現象学の印象などとともに、書きつづってみようかと思います。

アブラハム的主体とオデュッセウス的主体というところでこの中では珍しく、分かりやすい物語とともに真の主体とはどういったものかが説明されてました。

僕からしてみれば、アブラハムもオデュッセウスもどちらもすごいんだけど、よりすごいのは、アブラハムということです。

■オデュッセウスの物語
オデュッセウスの冒険は、「未知なもの」を絶えず「既知」に還元することをその本義とする。彼が異郷をさまようのは、より包括的な全体性を構築するため、彼の「世界カタログ」をより精密で豊かなものとするためである。P84

オデュッセウスの冒険において、他なるものは自らとともに全体性を構築している。

オデュッセウス的主体は、未知なる者に命名し、自分の中に取り込もうとする。故に答えはいつも自分の中にある。自分の中だけで閉じていて孤独なのだと説明されます。

なんか、分かりやすかったんだけどまとまらないのでこの辺で


■アブラハムの物語
神はアブラハムにこう告げる「あながは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、私が示す地へ行きなさい」このよくわからない宣告に故郷を捨てる決断をして出かけます。ある種の主体性を獲得する。自主性ではなく、他者からの呼びかけに応じる形で。

アブラハム的な主体が出会うのは「他なるもの」ではなく、「絶対的に他なるもの」、すなわち他者です。

主はアブラハムに告げる。「アブラハムよ、あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地へ行きなさい。そしてわたしがあなたに示す、一つ山の上で、全焼の生け贄としてイサクを私にささげなさい。」
アブラハムは理解ができません。父に子殺しの罪を犯させて主は何を得るのか。また別の意味があるのか?

主の言葉の意味を推察する公共的な準則をアブラハムは持っていない。その言葉の意味を彼はただ一人で、おのれの全責任において解釈する他ない。そしてアブラハムはそれを文字通りに解釈することを決断するのである。P96

主の告げた謎の言葉を解釈し、決断したのはアブラハム自信なのだから。それは人間アブラハムの決断である。P97

他者との対面を通じて、アブラハムは「誰によっても代替不能な有責性を引き受けるもの」として立ち上がる。このようにして自立したものをレヴィナスは「主体」あるいは「成人」と名づける。P97

ほとんど抜粋で終わったが、このあたり全部覚えたいなと思ったところ、悩み抜いて答えを出すものが主体なのです。

もうちょっとかっこいい言葉が続きます。

「神なき世界にあって、なお善く行動することができると信じるもの」、それが真の意味での主体である。P98

アブラハムの主体性は、理解を絶した主の言葉をただ一人で受け止め、それをただ一人の責任において解釈し、生きたという「代替不能の有責性の引き受け」によって基礎づけられる。P98

神との接近のうちに絶望的な孤独を味わったことによって(主体は)獲得されたのである。P98

この主体の描かれ方がかっこいい。これから先、仕事でも一人で決断しなければならない状況が増えるでしょう。その時のより所になりそうな言葉です。

ちなみに、このオデュッセウス的主体もアブラハム的主体も僕にとってはやっぱりすごいです。フッサールとレヴィナスを比較しているような感じで、出会う人がどちら的であっても尊敬するでしょう。おそらく。


全体を通して

やっぱり、まだまだ読めてないところが多い。

顔の彼方へ行くことが重要なんだよなとか、ぼんやり思ったりするが、なかなか文章化は難しい。

1章〜3章へと読み進める内に、他者というものの捉え方が少しずつ変わった。最初は「絶対的なにわからない存在」というのが見えてきたのだけど、最後の方では、他者は優しさ、柔らかさといった慈愛ももった存在に思えてきた。
師弟関係で言うところのそういう他者に出会ってみたいが、そんな人いるのかなとも思う。

恐らく、レヴィナスにとってのシュシャーニが、内田さんにとってのレヴィナスがそんな存在だったんではと想像する。

そんな師匠に出会えた人は幸運だなと思う。

僕はこの本を読んで、レヴィナスが伝えたかったのは、自責の念をもてという道徳だと思う。自責の念というあっさりとした言葉ではなく、こんな難解な書き方でないと伝わらないんだろうなとも思う。

ちなみん、内田さんは講演でレヴィナスは一貫して「大人になれ」って説いてるんだ。って説明されてたんで間違ってるかもしれない。まあ、かすってるかもしれないが・・・。

暇と退屈の倫理学』で国分さんが、あとがきに言いたいことはまとめるとこれだけと、2点ほどあげられてが、そのまとめだけを読んでも意味がなく、そこに至る過程を一緒に歩むことが重要と書いていた。哲学書を読む時に重要なことは、その本の要点をとらえることではなく、その本と向き合って考えて、読み終えるということなんではないかと思えた。この本を読んでもなんだかそう感じた。

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2012年10月16日

レヴィナスと愛の現象学を読んで3

レヴィナスと愛の現象学

著者:内田樹




第3章「愛の現象学」です。
ここでは、理想的な社会の在り方や世界との対峙の仕方が説明されています。

最初の方は、主体とか他者とかが、男性や女性という比喩をもって語られます。レヴィナスは主体を男性、他者を女性ということでフェミニストから猛烈な批判を受けます。恐らくレヴィナス的には本意ではなかったでしょうが、書かれる本も万人に開かれている必要があるというポリシーでいたため、反論もしにくかったでしょう(勝手な思いこみ)

フェミニストのイリガライとボーヴォワールからの批判です。
内田さんは、この二人の批判をたっぷり説明した後で、納得できない、あるいはとるに足らないと説明されてますので、割愛しようと思う。

「住み着く」とか「身を引く」とか重要な考え方があるのですが・・ばっさり行きます。ここを説明すると真相は闇の中です。たぶん。

フェミニストから批判を浴びるようなことをレヴィナスは言いたかったわけではないよ、からの・・・が主論だと思います

タルムード解釈から続く考え方などから、女性を他者として、男性を主体とした方が説明しやすいと思ったのだ。ということにします。
(※文章はできるだけ複雑にして分からないようにするというのがレヴィナスのやり方なので、ここは違ってると思います)

主論で、最初の方は平等の在り方を説明しているのだと思います。

この話の説明に入るには、ボーヴォワールの主張を少し引いた方がいいので、そこを説明。

ボーヴォワールは、男女同権を謳うのですが、そのやり方は、平等な男女が同等な権利を要求するというやり方です。

この考え方ではうまく行かないよ、というのが、レヴィナスの主張です。

ボーヴォワールのような平等の在り方では、平等なんだけど、お互いに権利主張を行い、それぞれが同格であるために、争いが起こる。

そうじゃなくって、

(ここからが少し複雑です。)

そうじゃなくって、どちらか一方をどちらかに従属させるという不平等に持って行き、かつそれを循環させることによって平等を成り立たせるというやり方をとります。(複雑ー!)

読書会では「ダチョウ倶楽部の永遠」という説明をしました。
ダチョウ倶楽部のギャクでこういうのがあります。

何かいやなことを誰かがしないといけないときに、「俺がやるよ、俺がやるよ」と皆が自己犠牲の美しい状況を作り出すのですが、上島さんが「俺がやるよ」と言った瞬間に、皆で「どうぞどうぞ」と言う、この変わり身の早さで、ウケを狙うというものです。
※まじめに説明すると面白くないな・・・。

っで、この上島さんが、「俺がやる」と言った時も、「どうぞ、どうぞ」と言わずに、さらに続けて、皆が「俺がやるよ」といい続ける状態が平等です。この状態では「俺がやる、俺がやる」と責任が入れ替わる、瞬間的不平等が連続して移り変わっています。この循環が続くと平等になっていくというやり方です。

それは平等という漸近線に少しずつ近づいて行くようなイメージです。永遠に平等にはならないんだけど、無限に平等に近づいていく。

この「俺がやるよ」という自己犠牲を、本書では「有責性を引き受ける」と言います。この有責性の引き受けは、なんの言われもないのに、なんにも悪くないのに、俺がやるという引き受けです。

その道徳的観念にたった、美しい有責性の引き受けを基礎として、それを循環させることで平等を成立させています。

この平等の在り方を次のように表現しています。
道徳性は平等のうちに生まれるのではない。道徳性のうちに平等が生まれるのだ。と・・・。

この平等という話を通して、道徳の重要性を説きたかったのではないかと考えています。

だから、そこで比喩として用いられていた男女関係に関しても、どちらかが先に有責性を引き受けるんだけど、その従属、非従属は瞬間的なもので、連続的にはその立場は入れ替わり平等なんだよということです。


さて、こっからです!簡単に言うと意味が分かんなかった。

でも、僕なりの解釈で行くと、2章の最後で説明したように、社会の在り方や世界と対峙する心構えを説いているのだと思います。って完全に思うだけです。

僕にとって、大問題だったのは、「第3者」の登場です。
第3者が登場することによって、絶対的な他者というものが脆くも、一気に崩れさります。

他者とは、分かろうとしても分からない絶対的なものだとこれまで説明してきて、そういう風に設定することで、学び方も良くなるし、その分からない中でも苦しみ、悩み抜いて、不安定な中で答えを出すという決断もできるという利点があったのですが、それをあっさりくずします。

そのロジックは、絶対的な他者と相対する自分の間に、第3者が介在するとその関係性が崩れるのです。第3者的な他者が入ることで、絶対的な他者は、比較の対象になってしまうのです。今まで比較することもできない他者と思っていたものが比較できてしまうのです。他者と第3者的他者は、どちらが、より他者的なのだろうという問いが発生するから

えええええええええええーーーーーーーーーーーー。

今まで、絶対的他者って考え方すげー、これだと、絶対的他者と想定することで、誰からでも何からでもすっごく多くのことが学べるし、悩み抜いて出す答え、これこそ主体性だよ!とか納得してたのに、こんなにあっさりくずしちゃうのーーーーと、いやいやこれには何か理由がある、もう少し読み進めようと最後まで読んだけど、その論理展開が複雑(もともと全部複雑だけど・・・)で、よく分からないままに終わってしまいました。1回じゃないよ、5回くらい読んだよ。でもよく分からない。

本書では、そこから、イキナリ、裁判官と被告人の関係に移ります。そして、正義の過剰と愛の過剰の循環で云々という話が続くのだが、理解しがたい。

それでもなんとなく分かったことを書いて見よう。
これ本書読んだ人にしか共感してもらえないかも、っていうか誰にも共感してもらえないかもだけど

普通に考えるとこの世界って二人の関係で成り立っているわけじゃないだから、第3者ってのは必ず登場するんだ。
そして、第3者が必ず存在するこの世界に生きていると、二人の関係で成り立つ、絶対的な他者って存在(考え方)を忘れがちになるんだ。

皆は忘れてしまっているんだ(思い出せ)と指摘してるんだと思う

第3者のいる世界では、他者のいない、従属関係のない法理的公正(ボーヴォワールのいう平等)ってのを享受しなくちゃならない
でもそれだと、ダチョウ倶楽部の永遠で成り立つ平等のような人間的公正が成り立たなくなって、争いが起きちゃうんだ。

この人間的公正を忘れがちになる世界においてもなお、二人の関係で成り立つ他者の設定や道徳を忘れないで欲しい、という思いを込めて、この世界の在り方を第3者の登場と言う形で包み隠さず説明したんだと思う。そう思いたい。

ということで大体終わり。
後は、第1章で言及しなかった「主体」に関してと、全体の印象をまとめよう。
「主体」のところの考え方は好きで、アブラハム的主体については物語丸ごと覚えときたい。

本を読んだらまとめようというのを継続してやってるが、この本では、まとめちゃいけない。書き記しちゃいけないと教えています。なんだか説教されているみたい・・・。
まあでも、綺麗にまとめられてはないし、まとめることでしか今のところ頭の整理と深く学ぶことを知らないので許してもらおう。多分、人間的成熟に至ってないから、まとめなんか書いてるのだろう。

次は最後、補足です。
レヴィナスと愛の現象学を読んで〜補足〜

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2012年10月15日

レヴィナスと愛の現象学を読んで2

レヴィナスと愛の現象学

著者:内田樹




次は2章の非‐観想的現象学である。
1章はまとめたけど、やっぱりまとまってないみたいだ、「分からないよ」という指摘が・・・。読書会の2次会後のアルコールの入った時に書いてるのでまとまってないのか(言い訳)、どうかは分からないが、読み返すと「全体志向と無限志向」の話のイキナリ感や、他者と主体という題名でありながら「主体」に言及していないところなど、もう少し修正したい。

さて、2章はレヴィナスの考える「他者」を詳しく理解する章です詳しく理解するために、フッサールが考える他者的なもの「他我」と比較しています。

ってか、「たしゃ」って入れて変換すると、どのパソコンでも「他社」になる・・・、ビジネスマンだよね!これが哲学者とかのパソコンだったら、スペース一度押したら、「他者」になるんだろうね・・・、どうでもいいね。

しかし、フッサールって言われても、哲学的な素養のない僕には、フッサール自体分かんないので、結局「他者」も分からないんじゃないのと思いながらも読み進めました。読むと親切にその違いが分かるようにフッサールについても説明されてましたので、勉強になりました。

■フッサールの現象学
フッサールは現象学で有名のようです。それを簡単に説明すると、「我思う、ゆえに我有り」で有名なルネ・デカルトの懐疑論を発展させ、いや深堀の方が似つかわしいかな、懐疑論に深みを持たせたようなのがフッサールの現象学です。

素朴実在論を含めた形で説明すると次のようになります。

素朴実在論:見たものありのままを捉えて思考する。「こうである」とかいう論を展開する。科学みたいな感じ。これを疑うことをしない無反省と言うそうです。(それ事態が悪いのか!?どうかは置いといて)

懐疑論:見たものは、本当のモノなのだろうか?幻想を抱いているだけではないか?とか、自分の精神がおかしくなっているからこう見えているのではないかと、見たものを懐疑するようなやり方です。反省してるんだけど、全否定です。

現象学:全否定で終わってもなと・・・、思いとどまるやり方。考えの起点は懐疑論で、懐疑論の懐疑仕方の様態から突破口を見いだせないかという方法です。方法だから、その他が論というのに対して学になってるのかな?

もすこし説明
懐疑論は、「私たちの感覚は私たちを欺き、私たちの推論は誤りうる」だから今目の前で起こっていることも、「実在」か「仮像」どっちかなんて分かんないよ、という立場です。

現象学は、懐疑論を出発点とするが、「実在」とか「仮像」かは、とりあえず置いといて、私に対する現象が、私にとってどんな風に現れるのか、その現れ方の様態や構造や法則性について考えるというのが現象学の立場です。ここを出発点にして考えると何かつかめるんじゃないのという立場です。

なんだか、ちょっと前進したような感じがします。
でもまだ、答えのでない途中段階をさまよっているようでもあります


この分からないことを分かろうと学び続けている様に、レヴィナスは自分の思想と似たようなものを感じて、フッサールに会いに行きます。
※自分でいうのも何ですが、すごいハショリ方ですね・・。

フッサールとの対面でレヴィナスが感じたのは、現象学が完成されていたということです。フッサールが、レヴィナスの問いすべてによどみなく答えるため、レヴィナスはすべてが完成されているように感じたのです。
レヴィナスは、学び続けている状態が永遠に続く、終わりがないという状態が正しい状態であると思っているので、自分の思想とは違うという感じを覚えます

ここから、レヴィナスのフッサール批判が始まります。
批判というとなんだか強いイメージがありますが、レヴィナスにとって、自分の思想と似たものを感じた現象学を永遠に続く世界に戻したかったのだと思います。これを本書では、現象学を生き返らせると表現しています。レヴィナスは現象学と対話したかったのだと思います。なんか、説明を加えるほど、だんだん分からなくなるような気がするのでこの辺でやめて・・・。

レヴィナスとフッサールの現象学の大きな違いは「他者」の捉え方にあります。その意味の違いもあってか、フッサールの他者的なものは、「他我」と表現されます。詳しく説明すると長くなるのですが、簡単に言うと、次のような違いです。

他者:がんばっても分からないもの
他我:がんばれば分かるもの

※説明が雑ですが、大体こんな感じです。

この違いを小難しく、
フッサール:観想的現象学
レヴィナス:非ー観想的現象学
と表現します。

この他者と他我の違いを「フッサールは、自我と他我を隔てる深淵について語るが、その深淵は違う仕方で経験していることであり、他我を理解可能なものとしている」と説明します。

レヴィナスは、現象学は、その出発点においては「他者の未知性」について厳密な記述を志した学知であったが、他者がフッサールの中では表象的なものに留まっていたと残念がります。

「他者」と「他我」の違いはこんな感じですが、じゃあいったい、この違いは何の意味があるの?というと、具体的には「レヴィナスと愛の現象学を読んで1」で説明した、師弟関係における弟子の学ぶ量が変わります。

レヴィナスの「他者」みたいなものを想定することで、師弟関係では学びの量が増えます。それは知識というものではなく、知恵といった方がいいようなものが身に付くのです。

また、本当の意味での主体性というものが何かが分かります

同様に、この他者を想定することで、世界の見方が変わります。

その内容は次回へ
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2012年10月14日

レヴィナスと愛の現象学を読んで1

レヴィナスと愛の現象学

著者:内田樹




今月の課題本でした。
6月には内田さんの日本辺境論を読み、内田さんの講演内田さんと岡田斗司夫さんの対談を聴きに行って、最近ハマってます。

しかし、このレヴィナスは超難しい本でした。

課題本は、
@街場のメディア論
A私家版ユダヤ文化論
Bレヴィナスと愛の現象論
の3つから選ぶことになっていました。
一応、全部読んでみましたが、課題本は最初からこれにすることに決めてました。一番難しそうだったのと、なんか響きがカッコよくて・・・。

ただ、予想を遥かに超えるくらい難解でした。ここ2週間通勤の朝と晩こればっかり読んでました。

さて、本書は3章の構成になったので1章ずつ紹介したいと思います。
ちなみに、読んだ後も若干分かってない感が、いやかなり分かってない感があるので、ここに書かれていることは本の趣旨とは間違ったことを書くかもです。

読書会では、内田さんの講演もあったんだけど、レヴィナスは「大人になれよ!」ってことを一貫して説いてるとおっしゃってました。また、、人間の成熟と共に理解できるようになっていく本だともおっしゃてましたので、数年経って、読み返してみてどれだけ自分が成熟したのかのバロメータにもしたいなと思うので、現在の自分が理解した内容を書き連ねようかと思います。

前置き長いね。

第1章の題は「他社と主体」です。
ここでは理想的な師弟関係の在り方を説明されています。

ホントにザックリと説明すると、

師弟関係とは、師匠は、私の理解も共感も絶した知的境位があるという物語を受け入れることです。
師匠を理解できない絶対的なものと見なして、分からないけど分かろうと学び続ける姿勢が重要です。分からないが故にたくさんのことを学べるんです。分からないが故に、悩み、考えることができるのです。逆に、この人が言っていることはこういう事だよねと、わかった気になると、その悩みや考えるという行為をやめてしまうので、人間的な成熟が成就されないということです。
従って、絶対に理解できないということを享受することが学びの出発点になるのだと思います。

この考えに立って、レヴィナスさん自身も分からない存在になろうと(勝手な解釈かも?)、書く文章はわざと複雑にしています

レヴィナスさんの本では、分からなくするために書き方の工夫をしています。意味の複数性を意図的に作り出しています。本書でも何個か紹介されています。その言い回しは次のようなものです。

@多義的な述語(読み方によって複数の意味に捉えることができるような述語です。
例えば、「他者」、「顔」、「イリア」、「有責性」、「第三者」と言ったものです。

A逆説的な表現
 ・如何なる受動性よりも受動的な受動性
 ・起源に先立つ、前‐起源
 ・かつて一度も現在になったことのない過去
などがそうです。

B前言撤回
 ・Aであり、同時にAではない。

Cその他
 ・AでないことによってAである。
 ・Aは十分にA的であろうか?
などです。

難しいですね・・・。ここでAは十分にA的であろうか?という言い回しはレヴィナス的な言い回しとして有名みたいです。
例で挙げられてたのは、

イスラエルは十分にイスラエル的だろうか?

などです。最初に出てくるイスラエルは現在の国としてのイスラエルであり、その国の人々を指しています。次に出てくるイスラエルは「的」と書かれているように、レヴィナス自身が考える道徳的、観念的なイスラエルです。イスラエルとはこうであるべきだというレヴィナスの主張が入った言葉です。
恐らくこの○○的のところには、言葉に観念的なものが含まれる象徴的なものがくるのだろうと思います。
ユダヤ人は、十分にユダヤ人的であろうか?とかね。

この複数の意味に捉えることができるというところが、書物が開かれているということです。読者によっていろんな解釈ができて広がりがあり、継続性があるのです。
このような書き方が、悩みや考える行為というものを生み出すのです。悩むことや考えることは人間を成熟させるために必要なものです。
ちなみに、開かれているが読み方にはルールがあるとも書かれてあります。どんなルールかは本書をご覧下さい。

この章の最後の方では、「全体志向」と「無限志向」というものが説明されています。

全体志向とは、理解できないものに意味づけして内側に取り込む方法です。理解を超えるものに命名して自分の理解できるものにしてしまうやり方です。

無限志向とは、分からないものは分からないままなんだけど、わかろうとする行為を続けるやり方です。分からない中でも、自身の解釈でなんとか分かろうとする仕方です。

全体志向も無限志向も、同じく分からないものをわかろうとしている点では同じです。微妙な、だけど大きな違いは、分からないものの捉え方です。
2章で詳しく説明される「他者」と「他我」の違いです。
分からないものを、絶対に分からないもの(他者)とするのか、かなり頑張ればわかるもの(他我)とするのかの捉え方が違います。

絶対に分からないものを受け止め、解釈する時は、不安定さが残ります。その悩み抜いて出した解釈は、ある意味決断と言えるのではないでしょうか?

かなり頑張ればわかるものを受け止め解釈する時は、その解釈には冷静で安定的なものがあり、決断に対して判断という言葉の方が似合います。

僕の貧弱なボキャブラリーで分かったような気になろうとするならば、この「決断」と「判断」の違いの根底にあるものを論理的に説明しているとも思えます。

すっごく長くなりましたが、次回は第2章を説明します。

次回へ続く

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posted by air_water at 01:10 | 京都 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする