著者:夏目漱石
こないだの読書会の課題本でした。文学はあまり読まないので、頑張って読みました。というのも中々難解だったから、頑張らなければならなかったのです。
この新潮文庫の『文鳥・夢十夜』には、他に、『永日小品』、『思い出す事など』、『ケーベル先生』、『変な音』、『手紙』が入っています。
僕は最初に、『夢十夜』を読み、あまりの分からなさに理解するのを妥協し、その他、短いのから順々に読み進めました。
『夢十夜』『文鳥』『変な音』『ケーベル先生』『手紙』『永日小品』『思い出す事など』という順番です。
文鳥、変な音、ケーベル先生、手紙あたりはまあ、書いてあることは何がしか理解できるが面白みは感じずといった具合で、『永日小品』は、読み進めるのが最高に辛くて、電車の中で睡魔に幾度となく教われました。中々終わらん・・・。
果たして、『思い出す事など』に行き着くと面白くて一気に読んでしまいました。
読書会自体は終始『夢十夜』で終わったのですが、皆の読み方に驚きです。
いろんな読み方ができるものだということ、きれいな文章に浸るという楽しみかたもあるのだと感じた。
方や、全然面白くないと思う、私の方の部類に入る人も多く居て、それが対照的で面白かった。
僕の感想は
『夢十夜』は、よく分からない、文章の美しさを楽しむものなのだろうか?といったもので、
『文鳥』『変な音』『ケーベル先生』『手紙』は、「でっ」「だからっ」と突っ込みたくなるように、何かありそうで何もない。いや読める人には何かあったかもしれないが僕にはこれっぽちも見えないという消化不良感が残っただけでした。
次に読んだ『永日小品』に至っては、「わからん」「長い」「早く終わってくれ〜」という感じでだいぶ辛かったです。小品なだけに、ころころ話が変わって中々話の中に入っていけず、入れても意味不明、辛いよ〜、だれか助けて〜、課題本だから読み終えなくちゃ・・・、といった感じでした。
でも、最後に読んだ『思い出す事など』はすごく面白く、やっと理解できて、良い文章に出会えたなと思った。漱石が病に倒れてからの日々を綴った作品で、全般的に面白いのだが、最も良かったのは、漱石が吐血して30分間意識を失う場面、意識を失って息を吹き返した時の自分の感覚を、それを見ていた人の話から補完して、あるいはドストエフスキーが癲癇にかかった時の状況などと比較して綴っている場面が、分析的で客観的で良かった。人間が生きている、意識を持っている、世界を認識できているのは何故か?という興味を持っているところだからかも知れないが、不謹慎ながらワクワクして読んだ。
しかし、驚くべきことに、読書会で『夢十夜』を絶賛する人は、この『思い出す事など』が一番駄目だったらしい。「面白くない」、「胃が痛くなる」などの感想があった。漱石に感情移入しているからだろうか、だんだん弱くなる生命力が自分のことのように思えるからだろうか?
そのギャップから僕の興味は次の2点になった。
・こんなにも違う感覚というのはどうやってできたのだろうか?
・『夢十夜』を絶賛できるようになりたい。
確かに僕は文学あまり読んだことないので、『夢十夜』も読めないのだろうと思ってた。
でもこないだ友人に進められた太宰治の『人間失格』は大分共感できて面白かったし、理解もできたと思う。主人公の内面をずっと追いかけて読んでた所を、最後、スタンド・バーのマダムの「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、・・・神様みたいないい子でした」の一言でガラッと客観的な視点を与える所なんかも良かった。人間の表面と内面のギャップを見せ付けられ、恐ろしいような、共感できるような、なんだか胸が苦しくなるような感覚を味わった。
恐らく、文学にも僕に理解ができるような理性系の文学と、なかなか分からない感覚系の文学があるのだと思う。
感覚系の文学はまさしく『夢十夜』で、僕からしてみれば一体何を言っているのだという類のものだが、感覚系の文学が読める人には、その文章が映像化され、耽美な美しさに酔いしれることができるのだろう。「考えるな、感じろ!」という世界だ!・・・と思う。
ただ、僕の理想とする人間像は「直感的に閃いて、理論的に展開できる人」だから、この感覚系の文学は前者の直感に深く関わっているような感じを受け、この『夢十夜』で感動できる能力が今は欲しくてしょうがない。
これまで直感的に閃く能力というのがまったくないと思ったことはなかったのだが、読書会での僕と対照的な人たちが感じる能力というのは凄まじく、理解ができなかった。でもそれが現実に何人も居た。不思議であり、かつ、その事実を受け入れなければならなかった。
読書会の二次会で思い出したのだが、僕は子供の頃から風景を見て、「綺麗とか、すごい」ということがほとんどなかった。だから友達と色んなものを見に行っても感動することはなかった。「すごいね」と共感する振りはできた。もしかしたら、この辺りの事情と関わっているのではないかと思った。
不思議なもので、こうやって共感する振りを続けると、本当に感動するものも表れるもので、三十三間堂の立ち並ぶ像に感動したことがある。何に感動したのかは旨く言い表わせないが、感動したこと自体が感動で、恐らく初めて「おおっ、俺感動している。」と思った記憶がある。この感覚を忘れないようにしようとたまに三十三間堂には行くようにしている。
なんとなくだけど、いろいろな風景をたくさん見ることで自分にも感動できるものがあることに気づくのではないかと思っている。
たぶん昔は、風景に興味がなかったから、見ているようで見ていなかったのではないかと思う。でも良く見ると、そこには感動する要素がたくさんあるのだと思う。
今更ながら思うが、三十三間堂は、そういう意味では分かりやすい。千体も精巧に作られた像がならんでるんだもん・・・。
風景と同じやり方で、感覚系の文学(この分類が正しいかどうか分からんが・・)に触れる機会を増やしてゆけば、その楽しみ方が分かってくるような気がする。
読書会の時、友人が、「これは、教えてもらって分かるものではないことだと思う。」と言ったのは、まったくその通りのように思える。
と、いろいろ考えていると、この二つの文章が書ける漱石は僕の理想像なのではないかと思えてきました。『夢十夜』と『思い出す事など』の二つを書けるのですから。
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