訳注者:金谷治
『大学・中庸』の中庸部分をまとめる。
数回読み返したが、「中庸」の意味を捉えることができず、理解に苦しみました。比較的理解しやすかった大学もそうだけど両者とも、事例は少なく抽象的な概念というか、著者が考える真理のみが、端的に表現されている感じです。
友人に「中庸」の意味を聞いたり、ネットで「中庸」の意味を調べたりして、だんだんと分かってきました。
中庸部分には、大きく分けると二つのことが書かれている。
1つは、「中庸」について
もう一つは、「誠」について
本書の解説の中で、「中庸」と「誠」を次のように表現されています。
「中庸」:人の処世のうえで、極端に走らぬほどよい中ほどを取っていくことをいう
「誠」:「天の道」であり、「天命」の徳として人の本性になっているという深遠な哲学的基礎を備えている。
「中庸」とは身近なもので、その「中庸」の徳は、高貴な本性としての「誠」にもとづいてこそ完成するとありました。この辺、読んでてもよく分かってませんでした。
ただ、論語では、中庸の徳が絶賛されていたり、古代ギリシャ哲学者のアリストテレスも「メソテス」という言葉は違えども同じ概念を尊重していたということも書かれていて、「中庸」がなんなのかとても知りたくなった。
「誠」の方は比較的簡単で、「大学」で教えられる一身の修養によって行き着く先です。どういう状態なのかは、実のところ分かってませんが、修養を積んでスゴイ人になった状態が誠です。
「中庸」については、本書にこんな文章があります。
・孔子の言葉で「中庸こそは最高の徳だなあ。だが、民衆のあいだでうまく行える者がとぼしくなってか、もう久しいことだ。」「聡明な人は〔知恵にまかせて〕、出すぎたことをし、愚かな者は〔よくわからないで〕そこまで実行がおよばないからだ。
・舜はいかにも大知者だね。舜は〔ただもの知りではなくて、〕好んで人にものをたずね、そのうえ身のまわりのつまらないことまでよくよく吟味して、その悪いところは抑えて善いところをあらわしひろめ、ものごとの両極端をとらえて、その中ほどを人民のあいだに適用した。
これくらいしか手がかりになるものがないな、どちらかというと「誠」の説明に多くを費やしている感じです。
そんで、友人に聞いたり、ネットで調べたりしていうと、ネットでは、三橋さんが動画で、「中庸」について語っていました。極論に走らずにその中ほどに正解があるんですよという教えで、その時の事例がTPPです。平成の開国として菅さんが始めたのですが、それに反論すると、ではあなたは鎖国主義者ですかと極論で批判される。開国か鎖国かの極論ではなく、その開国と鎖国の間には様々なバリエーションがあり、その中ほどを議論して正解を探っていくというのが正しい姿ですよ。ということでした。
これはわかり易い事例でした。
様々なバリエーションがある中ほどの正解を追い求めることこそ大切なことだということです。但し、その様々なバリエーションから正解を見つけ出すことは容易ではありません。そこで、一身の修養を積んで行き着く「誠」が必要になるわけです。その誠を備えた人が極論に走らずに中ほどを探っていくというのがいいのではないかということになります。
一身の修養は積みつつも、議論する時は極論で反論していないか、建設的な意見になっているかを確認しながら進めなければなりませんね!
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その理由はというと、「自分の行為と結果とを直接的に結びつけるために何が必要なのか」こう考えたからです。
特に、王陽明は「知行合一」と「心即理」を唱えていますし。
そして、それを実現するために、「修養」が必要なのではないかと。
で、「中庸」ですが、要するに「○×ではない」こういうことでしょう。
欧米の価値観の根本は○×主義です。
しかも、自分が○なら相手は×で何をしてもかまわない。それで、戦争とテロの連鎖が起こる。
それに、ピリオドを打てるのが「中庸」ではないでしょうか?
いずれにしても、自分も修養を積んで「誠」に近づきたいと思います。
コメント、チェックしておるつもりだったのですが、返事が遅れて申し訳ないです。
論語の勉強会とは素晴らしいですね。
私は、中庸の意味すら理解するのに時間がかかっている若輩者です。
最近は、中庸が大事だよなと思えるようになってきました。
今後とも、いろいろとお教えください!
ではでは