スポンサードリンク

2012年03月18日

暇と退屈の倫理学を読んで1

『暇と退屈の倫理学』

著者:國分功一郎




暇と退屈について考え、人間がどう生きるべきかに迫っている。

第1章は、過去の哲学者たちが「暇と退屈」についてどのような考えを持っていたのかを紹介されてます。パスカル、スヴェンセン、ラッセルなどが紹介されています。

パスカル
人間が退屈という病に陥ることは避けがたい。にもかかわらず人間は、つまらなぬ気晴らしによってそれを避けることができる。そしてその結果、不幸を招き寄せる。そこから脱却するには神への信仰だ。
※つまらぬ気晴らしで不幸になるとは、人間は暇よりも刺激を求めるが、その刺激の先に幸福があると勘違いし、刺激そのものを求めていると気付いてないことにあるという。

ラッセル
退屈の反対は快楽ではなく興奮で、人は楽しいことなど求めていない。その興奮となる刺激が不幸な内容であってもかまわない。
最終的な主張は、興奮できるような熱意を傾けられるような活動が得られれば幸福になれるというもの
⇒戦争も刺激的って話になる。

スヴェンセン
退屈が人々の悩み事となったのは、人生の充実を求めるロマン主義のせいだ。ロマン主義者は人生の充実を求めるが、それが何を指しているのか分からない。ありもしない生の意味や生の充実を必死に探し求めており、そのために深い退屈に襲われている。
⇒あまりにも消極的、何も追い求めないということか

どちらにも注目すべき点はあるが、納得できない点もある。

第2章は、人間はいつから退屈しているのか?という問いに挑戦している。歴史学ではなく、系譜学の手法で取り組んでいる。つまり、何年に誰が何をしたと考えるのではなく、いまわれわれの手元にある減少を切り開いて、その期限を見つけていこうとする。

結論を急ぐと、定住に切り替わった時、退屈が始まった
定住以前、遊動生活では、日に新たな環境に適応しようとする中で、忙しくしてきた。これは大脳に適度な付加をもたらしたが、定住以後、把握することが少なくなったため、持て余した能力を使いたいという欲求みたいなもの(退屈)が産まれた。

第3章は、暇と退屈の経済史である。
かつて暇は、裕福な人たちの特権であった。暇は、日々の暮らしで、忙しく働くことなく優雅に過ごせた人々の証であった。その特権階級にある人は、暇を生きる術を知っていた。
しかし、最近経済が発展して、労働者にもレジャーの権利が与えられた。これまで忙しく働いてきて、暇の過ごし方を知らない人々は、パスカルが言っていたように気晴らしに走り、ラッセルが言ってたように、熱意を傾ける活動を見出せず、日常的な不幸に悩んだ。

それから、ラファログの思い違いとフォーディズムを経て、現代が抱える問題をあぶりだす。現代が抱える問題とは消費社会である。

暇の過ごし方を知らず、暇を与えられた者たちは、刺激を求めて、その刺激がどうしたら手に入るのか分からずにいる。そこへ生産者が刺激を広告する。暇の過ごし方を知らない者たちは、刺激を求めてお金を払う。
例えば、特に新しい革新があるわけでもない携帯電話の新機種を、今もっている機種が十分に使えるにもかかわらず、気晴らしを求めて買ってしまう
気晴らしを売り始めた生産者側も、新しい刺激を日々開発せざるを得ない。機種変更の激しさによって、どのくらい売れるか分からない商品開発する。どれくらい売れるか分からないために、十分な設備投資を行えず、調整可能な派遣やパート労働者を雇い生産する。
なんだか上手く回っていない世の中に、暇と退屈の倫理学で答えを出そうとする。上手く回っていない根源は、内から生じ、人間に気晴らしを強いる退屈ではないか?著者は退屈と上手く付き合い消費者から変わるべきだと主張する。そこで、かつて暇を過ごす術を知っていた有閑階級の人々の知恵はヒントになるのではないか・・・?と締めくくる。

段々、長くなってきたので、続きは次回に


にほんブログ村 本ブログ ビジネス書へ にほんブログ村
ランキングサイトに参加しています!!
クリックして頂けるとありがたいです!!

posted by air_water at 03:34 | 京都 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/258320380

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。