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2013年03月28日

自意識過剰

最近読んだ本と読書会で出会った人の話から、いろいろと自分の過去を振り返った。

最近読んだ本というのは「すべてはモテるためである」っていう本。
僕の心の奥底にある触れられたくない部分踏み込んでくる本でした。



読書会で出会った人の話は「読書会で話に入っていくタイミングがわからない。」という悩みでした。

今はだいぶ、読書会でも自分の意見を言えるようになって、そのタイミングというのも少しずつ分かってきたのだが、昔はそれがすっごく難しくて本当に悩んでいた。

僕は、生まれついてコンプレックスを強く持っていて、そのことがあり、人と話すのが苦手で、人にどう思われるかばっかりを考えていた。人にどう思われるかだけを考えて生きてきたと言っても過言ではない。小、中、高と・・・、僕はずっと下を向いて歩いていたと思う。

一対一で話すときは、なんとか会話できるのだが、グループで話するときなんかは、何も話さずというのが普通だった。だから、皆で雑談している時は手持ちぶさたで、またその話ができない自分も嫌だった。まだ皆でトランプゲームしている時など、何かやることが決まっている時は落ち着けた。

一人でマンガや小説読んでるのが好きだった。たまに自己嫌悪に陥ることもあったが・・・。

大学になって、コンプレックス自体から抜け出しつつあったのだが、その染み着いた性格というものは、なかなか・・・、消えてなくなるものではなく、人がどう思うかばかり考えてて、やっぱりグループで話すのって、うまくなれなくて、仲のいい友達だけとならグループで話ができるようになったという程度だ。

社会人になってからも自信はなかったのだが、寮の友達に救われたのか、居心地がよく、皆でジムに通って楽しみながらダイエットできて、美容室で髪を切るようになり、冴えない眼鏡をコンタクトにし、外見を変えてちょっとずつポジティブになった。意外と単純な自分にびっくりもしたが、こういうことも重要なんだと思った記憶がある。

少し立って、会社の労働組合からお声がかかった、役員になってくれと。当時僕は、会社ではなんの取り柄もなく、物静かなやつだったと思う。何を思ったか当時の委員長がやって欲しいという。まじめ風だったところが良かったのか?今でも謎だ。まあでも労働組合なんて、やったら時間とられて、やっても収入が増えるわけではないという一見するとなんもいいことないように思えるので、実際のところはやってくれる人がいなくて、僕にお声がかかったようにも思う。

でも自分的には人生の転機と言えるほどの出来事であった。労働組合って、賃金上げろ!って激しく戦って対立している組織ではない。そんな時代でもない。基本的な仕事って人に尽くすことだけなんだ。

基本的には無給で、組織を活性化するにはどうしたらいいんだ?とか、会社から申し入れられる難題をどうやって皆と共有し、どうやってモチベーションを下げないようにできるかとかを長時間議論する。時には清掃活動やボランティア活動に参加したり、ティッシュ配りをしたり・・・、俺はこんなやつじゃなかったはずだ!と思いながらも、最初は半強制的にやらされるわけです。

でも、人に奉仕する活動をしてると、なんだか満足感というか充足感が得られて、お礼言われたりするとすごくモチベーションがあがる。人と関わることをずっと避けてきた僕としては、今までもったいないことをしてきたなと思ったり、これが人生の楽しい生き方なんじゃないかなって思えるようになってきた。

加えて、強制的に立場を与えられたので、意見を求められることが多くなった。発言回数も増える。でも、中身が空っぽだから、大したことは言えない。

そんな時に、皆本を読んでいて、そこからの引用とかでしゃべっていることに気づいた。会社のトップが朝会とかでしゃべるときも、哲学者はこう言っていたとか、そんな感じ。引用でも租借して自分の言葉としてしゃべっていると説得力があるしいい、これだと思った。

それから、小説やマンガくらいしか読んでなかった僕は、ビジネス書というジャンルを読むようになった。
読むとなかなか面白い。ビジネス書なんて読むに値しないって思っている人もいるかも知れないけど、少なくとも僕には役に立った。
いろんなジャンルの本を読んだが、最初は「思考法」の本が多かったと思う。中身が空っぽの僕は、何を読んでも「なるほどなあ」と感心させられることばかりだった。その分、偏見もなく吸収できていたような気もする。

それで読んだ本の内容を話すのも好きになった。「最近こんな本読んでこういうこと書いてあったよ」ということで会話が成立すること自体も良かった。会話で何を話していいのかよく分かってなかった僕は、本の引用という拠り所のある知識で話ができるのが、だいぶ会話の敷居を下げてくれていたと思う。また聞いてくれる友人や先輩にも恵まれてた。

そうこうしている内に、本にブログ書いた方がいいよと書いてあって、ブログ書くことにしたし、読書会なるものを見つけて参加することにした。
今更ながら思うが、小、中、高の時からは考えられないくらい積極的だ・・・。

でも、読書会、最初は途方もなく緊張した。
労働組合で議論の訓練はして、多少話ができるのでは?と思っていたが、読書会は誰も知り合いがいないアウェーだ。会場に入る時の僕の心の中のエネルギー障壁はものすごく高かった。
自分で参加表明しておきながら、「だいたい読書会ってなんだよ。何を話すんだよ!」と心の中で自問していたと思う。こんなところに来る人って絶対、頭よくって、みんなすごいこと話してて、ついてけなくて、一回でやめてしまうかも知れないと思ってた。

一回目は本当に緊張したけど、なんとか少し発言もできて、なにより皆いい人だった。これならやっていけるかなと。
調子が良くしゃべれる回もあれば、あまりしゃべれない回もあった。いろいろだ。とにかく、いままで続けることができている。

最近はだいぶ参加回数も多い方で、ふてぶてしくしゃべってる。参加回数が多いという慣れからくるアドバンテージを利用して、皆に気軽に話しかけている。これはズルいのかな?

小、中、高と、グループで楽しく会話している人たち、ただの会話だけど、その輪の中になかなか入れなくて、だけど羨ましくて、自己嫌悪に陥ってたあの頃から、徐々にリハビリして、なんとか体裁が保てるようになった。

けど「すべモテ」読んでると昔の自分がフラッシュバックのように思い出されて、今の自分はいったい何者なのかと思う。
本当の自分は、臆病で、会話が苦手で、駄目なやつなのに、ポジティブで自信がある風を装って、しゃべってる。

これは少しは「すべモテ」で言うところの「キモチワルイ俺」から抜け出せつつあるってことだろうか? でも心の奥底では、本当は自信がない。

「すべモテ」では最初に、自分が欲するモテてる状態とはどんな状態かを考えさせるんだけど、僕のモテてる理想的な状態って、異性にモテたいとかじゃなくって、根源的にはシンプルにみんなと楽しく話ができる状態なんだと思う。いつも話の中心にいて、光り輝くクラスの人気者みたいな感じだ。

心の奥底にあるひっかかりはなかなか消えることはないのだが、だいぶ人生は楽しくなってきたことは確かだ。
もっと多くの人と関わって、リハビリしていかなきゃ。読書会にしろ、他のいろんなことにしろ、こんな楽しいリハビリはないよな、ありがたいことだ。


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posted by air_water at 23:14 | 京都 🌁 | Comment(1) | TrackBack(0) | 日記etc | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月19日

経済学入門ーミクロ編ーを読んで

経済学入門ーミクロ編ー

著者:ティモシー・テイラー




分かり易い事例を用いて、経済学の用語や枠組みを説明している本です。最初の方で、経済学・経済学者養護や、経済学者はすごい的な発言のところだけ論調が好きになれませんでしたが、ミクロ経済の内容が多少分かって良かったです。

好きになれなかった点は最後に書くとして、最初の方に経済学を考える上において頭においておいた方が良い問いが3つあるとしています。

@何を社会は生み出すべきか?
Aどうやってそれを生み出すのか?
B生み出されたものを誰が消費するのか?

この本を読んでなるほどと思ったのは
・弾力性
・負の外部性と正の外部性
の2つです。

需要の弾力性は、(需要量の変化率)÷(価格の変化率)で表されます。価格を変えたときに需要がどのくらい変わるのか?という指標です。簡単な例でいうとたばこは常習性が強いので価格を大きく変えても需要量はそんなに減らない。だからたばこは弾力性が小さいとなる逆にオレンジジュースとかは価格が上がると別の例えばアップルジュースで代用できるので需要量は大きく減ります。従って弾力性が大きい。こういうのを調査するために使えます。
変化率を使えば、世界中のあらゆる商品が比較できるので便利だそうです。併せて絶対値も見逃さないようにしなければならないですが、この考え方は知れてよかった。

もう一つは負の外部性と正の外部性です。外部性とは、ある経済行為によって、直接の売り手と買い手以外の誰かが影響を受けることです。外部性には正と負があり、簡単なたとえでは「環境破壊」と「事業化できなかった発明」です。「環境破壊」は破壊や汚染を考慮しなければコストをやすくできますが、地域住民が影響を受けます。「事業家できなかった発明」は、事業の収益には反映されませんが、他の誰かが恩恵を受けることになります。この考え方も面白い考え方で知れて良かった。

後は、「機会費用」、「割引現在価値」、「国際的なカルテルは誰が裁くのか?」「魚を与えるか、釣りを教えるか?」など面白いところがありました。

<論調が好きになれなかった点>

・経済学は特定の答えを提示するものではなく、答えを導き出すための思考の枠組みを与えてくれるものなのです。
・経済学は未来を予測する技術ではありません。それなのに世間の人たちは、経済学者が景気の後退や回復を予言すべきだと考えています。(P.24)
・経済学は特定の政党を後押しするようなものではありません。経済学とは、そうした問題を考えるための思考の枠組みを提供するものなのです。(P.25)

なんで、「思考の枠組みを提供」と「政策を提示」の間に一線を画することを明示しなくちゃいけなかったのかな?経済学の目的はなんなんだろう。

・経済学者はもっと広い視野でものごとを考えます。
・経済学者はあらゆる策のコストを検討し、トレードオフを考慮に入れます。ところが、政治家は人々の目からコストを隠そうとします。(P.71)

すっごく主観的な感じがしてこの論調が好きになれませんでした。
全体的に、ためになったからいいか・・・。


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posted by air_water at 05:56 | 京都 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月16日

『沈黙』を読んで

『沈黙』
著者:遠藤周作




最近、小説しか読んでないな・・・、そろそろ次の読書会の課題本の『影響力の武器』読まないとまずいね!

キリスト教の話とは聞いてたので、題名から隠れキリシタンとして沈黙するというのが題材なのかなと思ってましたが、少し違ってて、沈黙しているのはキリストでした。祈れども、祈れども神は何も応えてはくれない、本当に神はいるのだろうか?というのが主人公の司祭の葛藤の中にいつもあったような気がします。

主人公はキリスト教禁制の日本へ、布教活動に向かう司祭で、物語はかつて司祭たちの師であったフェレイラが、キリスト教を捨てたという報告から始まります。そして司祭たちは、何故あのフェレイラが・・・、この報告は本当なのか?という疑問から、フェレイラと会って確かめるようとするのです。

ポルトガルからマカオを通って、日本に入るのですが、日本に着いてからは、ずっと隠れて過ごし、ほとんど日の目を見ることなく、暗い生活が続いていきます。

隠れキリシタンと会い、布教活動に明かりがさすのかと思われる場面もありましたが、それもつかの間、役人たちがやってきて、人質を取られ、ある村は焼かれ、隠れキリシタンの村人も司祭たちを匿うのが難しくなっていきます。

マカオから付き添ってきた気の弱い日本人の裏切りで、司祭はとうとう捕まるのですが、貧しいながらも食事は与えられ、厳しい拷問にはかけられません。そのかわり、司祭の周りの日本人が拷問にかけられます。おまえが棄教しないから、キリシタンの日本人が苦しむのだと迫ります。

神に祈っても、キリシタンの日本人は助かりません。神は何も応えてはくれません。最後には主人公の司祭も日本人を助けるために、拷問にかけられるのを逃れるために、棄教します。踏み絵を踏むのです・・・。感情移入してただけに悲しいものがあります。

ハッピーエンドでもないし、途中ハッピーな部分もほとんどないのですが、意外と苦もなく一気に読み終えました。

かつて歴史でならった踏み絵ですが、当時は踏み絵を踏むか否かでキリシタンかどうかを判別してたんだな。踏んでしまえば分からないよななどと簡単に考えてましたが、本を通して、キリシタンの側から主観的に観ると自分の信じてきたものを棄てるという心の葛藤にはものすごいものがありました。
踏み絵を踏むというただ単純な行為が、すごく大きな意味を持っています。

宗教というものがあまり分かってないので、歴史で習ってた当時は、踏み絵を踏むという行為だけで、神を信じている状態が信じていない状態になるというのが納得できませんでした。しかし、登場人物たちが踏み絵を踏む状況を見ていくと、信じるということ自体が抽象的であるが故に、「踏み絵を踏むと言うことは棄教するということである。さあ踏め」といわれると、他に信仰を証明する具体的なものがないために、踏めないのだということかなと考えるようになってきました。

「踏んでもなお信じているのです」という主張ができないという、信仰とは非常にやっかいなものだなとも思えてきました。

神を信じているということを自分が知っている状態だけではだめなのか?
神を信じているということを他者が知っている状態がなければならないのか?
信仰とは自分が信じているという状態を自分が知っていさえすればよさそうな気もするが、踏み絵を踏むという行為は、自分が信じていないという状態を本当に作り出すものなのだろうか?
拷問にかけられて死ぬことよりも信じるということは大切なのだろうか?
そもそも、なんのために神を信じるようになったのか?それは死ぬためか?そんな宗教は棄ててもいいんじゃないか?

いろんな疑問も浮かびました。答えは分かりませんが、宗教を考えるいい時間になったような気がします。

遠藤周作の作品他のも読みたくなりました。


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posted by air_water at 22:55 | 京都 | Comment(0) | TrackBack(0) | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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